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(読書感想)『この経済政策が民主主義を救う』

最近話題の松尾匡さん著『この経済政策が民主主義を救う』を拝読。松尾さんは、安倍自民政権を、国民主権と民主主義の脅威ととらえ、野党は連合して安倍自民を上回る経済成長政策、「真っ赤に燃えるような景気拡大」を訴えて、まずは政権を奪取しろと説く。



さて、安倍自民党とくれば、イメージは、美しい日本・美しい家族の助け合い。そこに合わない人は助ける価値がなく、個人の失敗も、生まれ育ちも自己責任なのだから、金がなければひたすら貧しく慎ましく暮らせ、という曽野綾子的世界観だ。

そして、何が正しいかは政府が決めるから、国民は心配もしなくていいし、何も知らなくていい。日本が過去にやったことはすべて仕方がなかったか、酷い行為は他国のでっち上げという態度。

私はそんな安倍自民党には早く退陣してほしい。

ところが野党を見れば、前政権の民主党(現民進党)の方針ときたら、政府は金を出せないから市民は助け合って慎ましく暮らせという方針。高齢化だから医療費と年金の維持のためにどんどん税を取りますといって、市民が消費を切り詰めることを奨励する。企業は国内では儲からないので海外に出るか、国内での賃金を切り詰めて生き延びるしかない。そして貧しい人が増えては固定化し、閉塞感が蔓延する。貧しい人が増えるから税収入も減り、ますます社会保障の切り詰めに走る悪循環となる。

「それは菅や野田、岡田路線だ、鳩山と小沢の時は違った」という人は、「新しい公共」というスローガンがいつ謳われたか思い出すべきだ。NPOの代表理事である駒崎氏のブログに書かれている通り。

公共を支える自治体や国に税として納めるか、もしくは公共を支える民間主体であるNPOに寄付として社会投資するか、を市民が主体的に選択するのです。

国や自治体等の官が全ての公共的分野を担える時代は終わりました。社会的課題は多様化し、刻一刻と進むグローバル化・情報化に、行政の意思決定のスピードでは追いつけなくなりました。小回りがきき、これまでなかった手法に挑戦する、民間で公共を担う主体が必要になってきたのです。
http://komazaki.seesaa.net/article/134977378.html


しかし、公共サービスが必要な全ての場所に、そんな民間が存在するものだろうか。そうではないから「公共」が必要なのだ。地域によって、必要だけれども成り立たなかったり、構想してから実現するまでに人の一生程度では足りないようなもの。

官を減らすことが美徳であるかのような、小さな政府志向は、すでに鳩山政権の時からあった。

『この経済政策が民主主義を救う』は、そんな状況は打破されなければならないと訴える。日本に、欧米では左派のスタンダードとなりつつある経済政策―社会民主主義的な政策―を前面に押し出す左派政党が出てこなければならない。そうしなければ、格差は縮小せず、社会保障は充実せず、弱者手当だけでなく国民の活力と希望を引き出す制度を備えた国家に、永遠になり損ねてしまう。

まず警告として、安倍自民党がいかに状況を利用して勢力を維持できているか、そして今後の経済状況の展開を選挙スケジュールにどのように利用するか、可能性のあるシナリオを示す。かなりありそうで怖いシナリオだ。

次に、今の経済状況がどのようか、多くの経済データを挙げて説明している。どれも経済学に明るくなくても理解できる、一般の新聞に良く載るようなグラフで、本文で分かりやすく解説されている。

それらの中には良いデータもあれば、悪化を示すものもある。1つ悪いからアベノミクスがダメだなどと考えると状況を見誤り、見誤ったまま主張していると世論からソッポを向かれ、安倍自民党の思うツボとなる。こうしたデータのどれがどう良くて、どれがどう悪いのか、きちんと把握することが重要だ。

たとえば、ベースマネーの増え方と企業の設備投資のグラフを見れば、それなりの効果は出ている。そうしたことをキチンと押さえておかなければいけない。

それから、「日本は十分豊かだ。みんな贅沢しなければいい」といった言説があるが、決してそうではないことが、いくつものデータとともに解説されている。栄養摂取量や淋病罹患率、失業率、自殺率…。高度成長期を過ごした人たちや、もともと恵まれて頭が良く品も良く厳格な人たちが想定するような、貧しくても安寧な生活などというものはない。金がある程度稼げなければ、不安定で希望もない。閉塞感に満ちている。そうしたことがデータでわかる。

そして、安保や原発政策では多くの人が与党に反対なのに、なぜか支持率は低下しない。そうした状況について、データだけでなく、前回の都知事選で宇都宮氏と田母神氏の間で迷う若者の様子をまじえながら現状を描き、警告を発している。

ではどういう経済政策を訴えるべきか。金融緩和は基本として行っておき、国債を発行して最終的には日銀が引き受ければ、世の中のお金を吸い上げずに政府が使える。そうしておいて、福祉、医療、教育、子育てに十分にあてていく。

不足していた公共サービスが充実し、国民が雇われて、賃金が払われるから総需要が回復。内需企業の業績見込みも上昇し、雇用がますます増えて賃金にも反映されるようになる。好循環が生まれる。

ここで問題なのは、世の中には国の債務増大への不安感が強いことである。しかしこれについても、少なくとも当面は心配する必要はないことの理由、将来的には状況に応じて実施できる有効な対処法も書かれている。

世界の左派について解説している章は、非常に興味深いリストとなっている。スウェーデン社会民主党、イギリス労働党党首コービン、スペイン左翼政党ポデモス、欧州労連、欧州左翼党、アメリカで社会主義者を自称する次期大統領選の民主党候補者の一人、サンダース。すべてが反緊縮で、人民のためにお金を使おうと訴えている。

経済学者ではクルーグマン、スティグリッツ、ピケティ、アマルティア・センの名前が挙がる。

安倍政権の経済政策には弱点がある。まだ主流派経済学の新古典派的政策がいくつも入り込んでいる点だ。左派の野党はそこを改善した提案を打ち出していくべきだとわかる。

新古典派とは何かも簡単に解説されており、それに対抗するケインズ経済学がかつて誤って理解されていた部分の説明や、ちゃんと解釈すれば、完全にいまの総需要刺激策になり得ることの説明もある。

これから、安倍政権の経済政策を上回る総需要刺激策を出そうという人たちが持つべき知識は、ここにある。これで完全ではないとしても(経済学は膨大な体系だ)、ほとんどの手がかりが示されている。


同一労働同一賃金の話

最近同一労働同一賃金が話題です。

日本では、年功序列の線路を(たとえ途中で転職しても)粛々と歩めた正社員組の生涯賃金に比べて、途中で列車から放り出されて戻れなかった中高年や、そもそも列車に乗り込めていない若者の生涯賃金が明らかにヤバいことになってるわけです。

生涯賃金が低ければ、国や地方に納める税も社会保険料も大して払えないわけで、国としても困ると。

そこでとにかく非正規の賃金を上げていかねばならないと。

そこまではまったく同意なんですが、そのために「同一労働同一賃金」を持ち出してくるのは、私見ではあんまりスジがよろしくない、とは思っておりました。

労働経済学者の安藤至大先生も、賃金格差を考える(上)「同一賃金比較対象難しく 職務給に限定が妥当」という記事で、同一労働同一賃金に対し悲観的な感想を述べていらっしゃいます。

しかし「年功賃金である正社員と市場で賃金が決まるパートタイム労働者では、賃金に違いが生じるのは避けられない」などと書いているのを見ると、何とも呑気というか、この労働市場のヤバさをあんまり感じていらっしゃらないのだなぁと、ため息が出てしまいました。

そもそも、労働市場は不完全ですから、いったいどういうわけで賃金が決まるのかがいまひとつわからない、というところがまず大前提なわけです。

経済学者にヒックスという偉い人がいるそうですが、労働市場の不完全性に衝撃を受けて新古典派から転向してしまったとか、サミュエルソンという偉い人は「賃金決定の理論のところにくると,どうも自信が持てなくなる」と述懐しているとかいう話もあるそうです。(萩原進『労働経済学への手引き』 http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/4005/1/77-1hagiwara2.pdf

要は、「仕事が同一だと賃金は同一である」という式があんまり成り立っていない市場なんです。

それに、考えてみたらいいですよ。日本でなんで、非正規が増えたんですかね?賃金を安くしたかったからですよ。簡単な仕事が増えたから非正規が増えたんじゃなくて、先に賃金を安くしたいという願望があって、いろいろこじつけてそれ用の仕事をつくってきた。

「非正規」にしたのは賃金を安くしたかったから、です。

だからいくら、自民党の雇用問題調査会・同一労働同一賃金問題検証プロジェクトチーム合同会議で提案されてるみたく「賃金を要因分解して賃金表をつくって」とかやっても無駄です。たとえば「正社員が参加する会議に非正規は参加しない」とか「最終的に責任は取らせない」とか何とか、いろんな理由で賃金表の格差をでっちあげることができる。

つまり同一労働同一賃金というものをまじめに学問的に分析して、それが可能かどうかなんてやってたら、永遠にそんなものはできません。

とにかく非正規の賃金を上げる理屈を、どんなに整合性がなくてもくっつけて、政治的に通さなきゃいけない状況なわけですよ今は。

唯一の希望のきざしは、かつては正社員の雇用と年功序列を守るために、非正規の賃金は圧倒的に安くなければいけなかったのですが、さすがに年功序列がだいぶ薄れたところに、団塊世代の高給の社員が定年でごっそり減って、企業が払う給与が減ってきました。これから、多少は企業に余裕が出てくるんではないですかね。

そしてあとは、従業員に低賃金で長時間労働させて下手に頑張る生産性の悪い企業を、やたらに残さないことです。競争過多になって、無駄な料金競争もおこり、賃金がちっとも上がりません。どこかの虫のマークがついてる引越社さんみたいな。


実質所得低迷が問題なのはその通りですが

土居丈朗先生の「家計所得低迷の原因は、実質所得低迷にあり 消費増税のせいにしていては何も解決しない」(2016年04月04日|東洋経済オンライン)という記事を読んでみましたよ。

実質所得低迷が問題なのはその通りですが、この方に「消費増税のせいにしていては何も解決しない」と言われると、だから消費税はそれはそれで増税しようそうしよう、なんて言い出すかと思って冷や冷やしてしまいました。さすがにこのご時世そんな言い方はなかったですね。

ただ「長続きする財政出動ができない以上、財政出動で着実な賃上げは起こらない」と財政出動をくさすのは困りものです。それをいうなら「長続きする財政出動をできるようにしよう」でしょう。

結論部の「供給側に働きかけて労働生産性を高める」というのも結構くせものです。

労働生産性というのは、大手企業はそれなりに高くて、中小はヤバいのが多いのです。大手企業は労働分配率は若干低くても、従業員給料は高いんです。

要は、従業員を長時間働かせていて、かつ低賃金しか出せないというのはいちばん労働生産性が悪いわけです。労働生産性の計算式からしたら、少ない人数で、労働時間が少なくて、給料が高い方が生産性が高いわけですから。給料をちゃんと出せないような企業はつぶれていかないと、日本全体として労働生産性というものは高まらないわけです。

念のためですが、保育などの、もともと儲かるわけがない公的性格のサービスはつぶしてはいけないんですよ。そこのところは勘違いしてはいけません。

結論部引用しておきますね。

デフレから早期に脱却させるには、一度始めた異次元緩和策を縮小しては逆効果でよくないが、供給側に働きかけて労働生産性を高める取り組みを官民挙げて行うことも重要だ。そして、実質所得の増加を家計消費の増加につなげるには、安心して老後生活の設計ができるよう、公的年金を始め社会保障制度や税制を予見可能なものにして、若いときに多めの貯金(予備的貯蓄)をしなくてもよいとのシグナルを、政府が国民に発していくべきである。



(拙訳)エコノミストへ。お金を貯めても貯蓄になりません(貯金こそ罪)

今週はevonomics | The Next Evolution of Economicsというサイトから、「エコノミストへ。お金を貯めても貯蓄になりません。(貯金こそ罪)」と題された記事を紹介。



もし誰かがお金を貯めて、他の人もみんなもっとお金を貯めたら、貯蓄は増えるだろうか?企業がもっとお金を借りられて、投資して、みんなの生活が楽になりますかね?家庭がお金を貯めれば、企業の投資資金が増える。つまりわれわれがみんな貯金すれば、世界はもっと生産的になって繁栄すると。よく聞く話だが、本当にそうだろうか?

実は、それは間違いだ。ナンセンスだ。筋の通らないたわごとだ。ちんぷんかんぷんのニセ科学で大ぼらだ。一部が真だからといって、全体についても当てはまると思う合成の誤謬だ。

節約のパラドックスについて聞いたことがあるだろう。みんながもっと貯金したら、支出が減り、所得も減る。所得が減れば総需要も減る。これは少なくとも表面的には、むしろわかりやすい話ではある。しかし真のパラドックスは複層的だ。「貯金」によって資産がどうなるかを考えたとき、それが、パラドックスの根幹にある。我々がもっと貯金したら、貯蓄は増えるのだろうか?

そもそも「貯蓄」を国家会計上測定することはできないことを理解しなければならない。エコノミストや解説者は安易にこの言葉を使っているが(バーナンキも「過剰貯蓄仮説」を唱えている)。米国の財務会計報告書である、連邦の四半期のZ1報告を見てみよう。おわかりだろうか。「貯金する」ことに関しては、さまざまな会計上の、フローに関する定義があって、測定は可能だが、そうした貯金によりどれだけが総合的に蓄積したかを把握するための測定方法はないのだ。(そのため、ストックとフロー間のモデルに問題が生じている)

それから、次の質問を考えてみてほしい。

あなたがお金を支出したとき―つまり、新たに生産された物やサービスの対価としてお金を誰かに渡した時、社会全体での貯蓄額はどう変わるだろうか?厳密に会計的に考えて、何も変わらない。あなたのお金は他の誰かの財布に移動するだけで、消滅するわけではない。あなたの銀行の預金は減るが、受取人の預金額は増える。この会計上のイベントでは、貯蓄額は全体としては何も変わらない(こうした金銭の移動によって引き起こされる経済的な効果というのはまた別の話だ)。誰かの支出は、他の誰かの所得である。逆もまた然り。

しかしもし、誰もお金を使わなかったら?お金を使わずに貯めて、誰かの銀行口座に移すのでなく、自分の口座に置いたままにしておいたら?そうしたら、全体として貯蓄は増えるだろうか?そうはならないことは明らかだ。このような「貯金(金を使わない)」という「行為」は、文字通り何の出来事も起こらないということと同義である。

もっとも初歩的な会計用語で、貯蓄とは、所得から消費を引いた残りである。個々の家計を考えれば、当然と思えることが、全体的に考えるときには当然とは言えなくなる。というのは、全体で考えると、所得イコール消費だからだ。この等式は経済学を学ぶ時に最初に教わる経済循環の基礎の基礎である。貯蓄は、所得から消費を引いたものであるから、ゼロになる。

それでは貯金はどうやって可能になるのか?「貯金」とは、個々の家計にとって、国にとって、世界にとって、何を意味するだろうか?まず個々の家計で考えてみよう。家計貯蓄とは何か、日常的な考え方で見てみよう。

人は一生働き、ある程度、稼いだ金よりも少なく支出し、銀行口座に残りを貯める。口座のお金を、家や株や債券と引き換えにして、それが将来価値が上がることもあるだろう。最後には引退して「貯蓄」もしくはそこから得られる利息収入で生活する。こうした日常的な、個人の生活の話の中では、貯蓄(残高)は、純資産を意味する。バランスシート上、資産から負債を引いた残りが純資産である。いざ引退したときには、純資産、つまり貯蓄がいくらあるかが、真に意味を持つ数字だ。要はそれは「あなたにはいくらお金がありますか?」という意味だ。

しかし、マクロ的に考えたときの貯蓄となるとどうだろうか。国家会計にはその残高を図る方法がない。それは、家計の資産もしくは純資産の総計がいちばん近いだろう(外部保有資産もしくは負債がない場合、資産と純資産は同じになる。世界的に見れば、資産イコール純資産となる。火星人に借金はないからね。世界のバランスシートの貸方は、純資産のみである)ちなみに、米国の家計資産の総計は約101兆ドルである。純資産は約87兆ドルである。家計セクターは14兆ドルを他のセクターから借りている。(参照

ここで重要なのは、家計はすべての企業を直接または間接に保有するということだ。ある会社は、他の会社に保有されるし、その会社がまた他の会社に保有されることもあるわけだが、究極的にはどこかの家計が保有することになる…(訳者注:一部、理解できない部分があり訳を省略しています。最下部に原文の該当部分を記載します)…つまり家計の純資産イコール民間セクターの純資産である。民間の資産の保有主体を勘定する場合、既存のモノと将来の生産物に対する与信の合算となるが、会計上の責任は家計ということになる。

「家計の純資産」を金額ベースで把握する方法は、国家会計で世の中の実際の価値をドルで推計するために最大限の努力をしたものと言える。完璧には程遠い。たとえば、政府の純資産との関係は極めて疑わしい。J.M メイソンによる、ドイツの家計の純資産が不気味なほど低いことに関する記事を参照してほしい。しかし、いまのところ手持ちの数字としては、もっとも実態に近い数字だ。

貯金は貯蓄額を増やさない。では総体として我々が「貯蓄する」ためにどうすればいいかというと、長持ちするモノを生産して、会計年度内で使わなければいい。機械屋はボール盤を生産し、大工は家をつくり、発明家は発明し、起業家は会社をつくり、エコノミストは本を書き、教師や学生は知識とスキルと能力を高める。こうした目に見える、もしくは見えないものを貯めて将来使えるならば、それは真に我々の総体としての富になる。

金融システムはこうしたもの(将来の生産物)に金融的な仕組みをつくって与信すればいい。当座預金口座の不足を補うドル紙幣でもいいし、債務の担保となる不動産権利証書でもいい。市場はそれに対するドルの価値を設定したり調整したりする。こうした与信を受ければ、将来、実際のモノを買ったり消費したりできることになる。これらは、(直接または間接に)既存のモノや将来の生産物の請求権利なのだ。市場は常に、将来の生産物の価格や価値に対する総合的な期待値にもとづいて、この与信に対する価格を調整する。期待が楽観的だったり、悲観的だったり、「アニマル・スピリッツ」が満ち溢れているかなどの状態によって調整されていくわけだ。

こうした制度を背景にしたとき、「貯金」問題がポイントとなる。エコノミストたちは、トウモロコシを貯めることとお金を貯めることを混同している。彼らは金額(実物に対する与信額)と、実物の蓄積を混合している。「金融資本」という言葉は矛盾話法だ。資本というのは実物である。ピケティその他が富と資本を同義語として使っているがそれも整合性が取れておらず、自己矛盾である。「資本の輸入が貿易赤字を相殺」という記事を見てほしい。

金融上の仕組みと実物貯蓄を混同しているので、我々は金額と実物の蓄積とを混同してしまうが、金額つまり金融の仕組みというのは、実物とは別物だ。これらの約束(与信)は、実際には何も持っていなくても作られる。(約束というのは安いもので、実際には無料でなされる)そしてそれらは、実際の生産に使われるわけではない。(約束を食えるわけではないし、それを工場のラインに乗せても何もできない)この、ドルとなるはずの与信、金額は、金融市場上で仕掛けをつくったりなくしたり、価格を再調整したりすることによって、つくられたりなくなったりしている(拡大、縮小ともいう)。

消費は我々の持つ実物を減らす。トウモロコシの消費量を減らせば、残るトウモロコシの量は増える。お金の支出は、実物在庫を減らすわけではない。お金の支出を減らしても、社会全体としては同じお金の量を持っている。

トウモロコシは生産されて消費される。金銭的な富は―我々の約束や与信を複雑にやりとりした後の正味の、ドルに換算した価値であるが―単に現れて消える。それが、われわれがお金と呼んでいる、社会会計上の構築物の魔法である。

実物の耐久消費財や富の計算について、ちょっと脱線になるが触れておきたい。ここにも、根絶に値する暗黙的な会計学上の論理ミスが広まっている。会計上の定義を考えてみよう。消費支出(C)は会計年度内に消費される生産物に対する支払いである。投資支出(I)は、会計年度を超えてモノを生産するために支払われる。C+Iが、Y(GDP)となる。

これは間違い。消費支出が増えると、投資支出が減る―そして実際のモノや富が減る、どうですか?違うでしょう。その考え方だと、Yが固定で、過去すでに会計的に決まった値であると想定している。もし我々がモノの消費を少なくしたら、単にYも減って、投資額は変わらない。行動科学で考えたらもっとひどい状況で、消費者が支出を減らしたら、企業は設備投資を減らして、どっちの支出も減って、合計のYはもっと減るだろう。

現代の仕組みにおいて、貯金と実物の関係はどうなるだろう。我々は、実物が増えていったとき、実際に蓄積されたものを、総合的にマネタイズし、貯蓄をつくりだすことはできるだろうか?3つの方法がある(どれも「個人的貯金とは無関係)

1.政府が債務を消費して実在化させること。財務省がドルを預金し、無からつくりだした金を、モノやサービスの対価として、民間セクターの当座預金口座に送り込む。これによって民間セクターのバランスシート上、資産が増える。この過程では民間セクターの負債は作り出されない。(財務省が国債を売って、Fedが買い戻しても、民間セクターの資産には影響しない。単に資産を交換するだけで、民間セクターのポートフォリオの中で国債と当座預金のバランスを変えるだけである。「経済的」には何らかの効果はあるかもしれないが)

2.銀行が新しくローンを発行し、無からドルを作り出すこと。このローンの発行では、民間セクターの資産が増える。しかし貸出/借入という行為それ自体は、純資産の総額に影響しない。借入側は、新しい資産に相当する負債を同時に引き受けるからだ。銀行による新しいローンは、3番目のメカニズムによって長期的にレバレッジが効果を出せば、純資産を増やす。

3.我々がより多くのモノやサービスを作って、それがより価値があると決めたり、新しい金融ツール(株や債券みたいなものの新しい発明)ができて、既存資産の市場がその仕掛けに価格をつければ、与信の総計が拡大して、拡大してきた実物の総額に匹敵するようになる。市場の拡大により家計が負債を増やさずに資産を増やす。そのため政府による債務支出のように、しかし銀行貸出とは異なる形で、市場拡大が家計の純資産を増やす。おやおや、家計のお金が増えたぞ。このやり方は「お金を刷る」方法として議論を呼んでいる。(これは「お金の節約」サギとして世の中を席捲していて、「財政均衡主義」病のもととなっている。このサギについてはシャーロッテ・ブルーン、カーステン・ヘイン-ジョンソンによるこの論文に詳しい。またこの論文では、貯金が純資産の変化とイコールではなく、所得を測定するのにキャピタルゲイン所得が含まれないという深刻な概念上の問題が指摘されていて、要注目である)

経済学の基礎となっている経済循環チャートは考え直されるべきである。

長期的には、我々の実物の合計と、我々がそうした実物に与えるドルベースの価値の合計は(バランスシートの資産または純資産として勘定された場合)だいたい同じになる。しかしそれは非常に長期の話で、何十年、何世紀もかかるかもしれないし、とりわけ、人々の考え方、文化的規律、制度、政治状況、金融政策レジーム、信念、地政学的状況、環境危機状況、技術的進歩の状況により変わってくる。ピケティの資本論が資本以外のことを描写していないなら、それはそうした現実を描き出しているのだ。

いろいろなことが我々の総合的な貯蓄に、実物としても金額的にも影響を与えているとはいえ、確実にいえることは、個人的に「お金を使わない」という行為は、我々の総合的な貯蓄額を増やさない。個人が金を貯めても、企業が使える資金となるわけではない。こうした考え方は会計の考え方として不整合である。

むしろ、経済上の効果はこうなるだろう。より多く支出されれば、より多くの生産がおこなわれる。(インセンティブが問題)そうするとより黒字が増えて、物は―耐久消費財にしろ、非耐久消費財にしろ―より価格が高くなる。耐久消費財の価値は、政府や金融システムにより、新たなドルベースの金融ツールや法制度によってつくりだされる与信によってマネタイズされ、既存の金融上の仕組みや与信に積み上がる。

一言でいうと、支出によってお金が増える。実物の、総合的な、長期に残存する物の総額が増えるということだ。お金を節約しても総合的には―今年のあなたの収入の一部を使わないという話ではなく―実物を増やしもしなければ、貯蓄額も増やさない。

悪魔の負債は、巨悪でも何でもない。むしろ、利己的な貯金や、債券の死蔵こそ、経済的大罪である。

注  (Firms’ liabilities are netted out of their net worth, by definition.) This because: Households don’t issue equity shares — their liability-side balancing item is net worth, not shareholder equity. Firms don’t own households. (Yet.) Companies’ net worth is telescoped onto the lefthand, asset side of household balance sheets.


(拙訳)国の債務を正す必要はない

"Real Money"というサイトのThe National Debt Doesn't Need Fixingと題された記事を拙訳。




国の債務とは何か?この話題は常に取り上げられている。不気味な、われわれを脅かすもので、国家の罪であるかのごとく語られる。「債務を正す」キャンペーンや、ピーターソン基金といった資金力のある団体が、債務に関する際限のないプロパガンダを振り撒いている。

しかし、債務を取り上げるといったときに、国の資産や収入を同時に取り上げないというのは変だ。お金を借りに銀行に行って、「いまこれだけ借金があります」と言ったら、銀行の人は「了解しました。あと、資産と収入はどうでしょうか?」と聞くだろう。ところが国の債務の話になると、それらは議論されない。タイムズスクェアには「債務時計」があるが、資産時計はどこにあるのか。

ほとんどの人が国の債務とは何か理解していない。だいたいは、いつか爆発する時限爆弾のような恐ろしいものと解釈されている。
債務が何か、真に理解するためには、ドルとは何かを理解する必要がある。

ドルとは、税金の支払いに充てられる信用状に過ぎない。どういうことか?簡単な話だ。課税がドルに価値を与えているのだ。
政府が自国通貨のドルでしか、税金の支払いを受け取らない、それが通貨への需要をうんでいる。課税こそが、不換紙幣に与えられている価値の根源にある。

つまり国の債務とは、1789年の連邦の始まり以来、政府が発行した貨幣から、税として支払われた金額を差し引いたものなのだ。
残りの19兆ドルというのは、民間や他国が持つ、まだ税の支払いに充てられていないドルということである。それらが支払われなければならない理由はない。

公共セクターはそのお金をほとんど国債の形で保有しているが、それは単に、満期日があって利息のついたドルであるに過ぎない。

それがいつも話題になる19兆ドルであり、国の債務の意味である。つまりそれは、公共によって保有されるドル(税の支払い能力)である。

それを理解すれば、国の債務が借金ではないことがわかる。外貨を借りているのとは違う。金(きん)を借りているのとも違う。物やサービスを借りているわけでもない。実のところ、何かを借りているというよりも、所有しているというべきなのだ。

さらに、考えてみれば、債務の増え方は、経済成長のサイズ、人口の増加率、貯蓄志向の増加はどみれば、当然増えて然るべき程度だ。それに、天恵でもある。2007年に8兆ドルだったものが、いまは19兆ドルであり、公共の手による11兆ドルの増加こそが、大不況から経済が回復できた理由である。政府が11兆ドルを消費して経済に入れたおかげで、かなりいろいろなものが浮揚した。

ちなみに、11兆ドル増えてもインフレなど起こらなかったし、ドル安にもならなかった。むしろ逆だった。つまりさんざん聞かされてきた、金を刷るとインフレになり通貨価値が毀損されるというたわごとは嘘っぱちだったわけである。

われわれが、債務によって金を調達したとき、金を借りているわけではないと理解することが重要だ。債務はドルであると申し上げた。政府によって使われて、実在化した。(ここは訳に自信なく、校正希望。原文→Dollars spent into existence by the government. Everything was paid for.)

もし国家として、本当にドルを借りて調達したとして、そのドルはどこから来るのか?何しろドルは、政府の消費によってしかもたらされないので(あなたはドルを刷らないし、私も刷らないし、中国も刷らない)、そもそも、誰かが貸すよりも前に、消費されて実在化しなければ、貸す金はない。

モノポリーというゲームがある。遊び始める前に、お金を配らないといけない。サイコロを振って、「チャンス」や「共同基金」にあたって税金を払うことになったら、すでに配布されたお金のなかから払戻す。すべての人にあらかじめモノポリーマネーを配らなければ、ゲームができない。そのお金を借金と呼ぶだろうか?もちろん、そうは呼ばない。それならなぜ、我々に配られたお金を国の借金と呼ぶのか?

債務恐怖症や、債務恐怖を利用して人心を操るキャンペーンは、本当に嘆かわしい。そうしたことはすべてデマであるか、ひねくれた意図にもとづいている。「債務を正す」ことは我々が、国としてできる最悪の行為だ。それはつまり、政府がその金を取り消すということで、そしてそれは実際に消え去ってしまう。それこそが、かつてない経済的「核の冬」に世界を突き落とす災厄となるだろう。

しかしそれを我々はやろうとしている。それをまさに、非常に「賢い」人々が提案している。私の記憶では、憲法に均衡財政条項を入れるのに、確か、あと7州のサインを残すのみだったと思う。デマとそれを利用したプロパガンダによってもしそんなことが実現したら、いまわれわれが米国として受け入れている暮らしや社会は、何世代もの先まで変わってしまう。良い方への変化にはなりえない。



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Author:アリス
資本主義の国のアリス

リベラル&ソーシャル。
最近ケインジアン。

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