(拙訳)エコノミストへ。お金を貯めても貯蓄になりません(貯金こそ罪)
今週はevonomics | The Next Evolution of Economicsというサイトから、「エコノミストへ。お金を貯めても貯蓄になりません。(貯金こそ罪)」と題された記事を紹介。
もし誰かがお金を貯めて、他の人もみんなもっとお金を貯めたら、貯蓄は増えるだろうか?企業がもっとお金を借りられて、投資して、みんなの生活が楽になりますかね?家庭がお金を貯めれば、企業の投資資金が増える。つまりわれわれがみんな貯金すれば、世界はもっと生産的になって繁栄すると。よく聞く話だが、本当にそうだろうか?
実は、それは間違いだ。ナンセンスだ。筋の通らないたわごとだ。ちんぷんかんぷんのニセ科学で大ぼらだ。一部が真だからといって、全体についても当てはまると思う合成の誤謬だ。
節約のパラドックスについて聞いたことがあるだろう。みんながもっと貯金したら、支出が減り、所得も減る。所得が減れば総需要も減る。これは少なくとも表面的には、むしろわかりやすい話ではある。しかし真のパラドックスは複層的だ。「貯金」によって資産がどうなるかを考えたとき、それが、パラドックスの根幹にある。我々がもっと貯金したら、貯蓄は増えるのだろうか?
そもそも「貯蓄」を国家会計上測定することはできないことを理解しなければならない。エコノミストや解説者は安易にこの言葉を使っているが(バーナンキも「過剰貯蓄仮説」を唱えている)。米国の財務会計報告書である、連邦の四半期のZ1報告を見てみよう。おわかりだろうか。「貯金する」ことに関しては、さまざまな会計上の、フローに関する定義があって、測定は可能だが、そうした貯金によりどれだけが総合的に蓄積したかを把握するための測定方法はないのだ。(そのため、ストックとフロー間のモデルに問題が生じている)
それから、次の質問を考えてみてほしい。
あなたがお金を支出したとき―つまり、新たに生産された物やサービスの対価としてお金を誰かに渡した時、社会全体での貯蓄額はどう変わるだろうか?厳密に会計的に考えて、何も変わらない。あなたのお金は他の誰かの財布に移動するだけで、消滅するわけではない。あなたの銀行の預金は減るが、受取人の預金額は増える。この会計上のイベントでは、貯蓄額は全体としては何も変わらない(こうした金銭の移動によって引き起こされる経済的な効果というのはまた別の話だ)。誰かの支出は、他の誰かの所得である。逆もまた然り。
しかしもし、誰もお金を使わなかったら?お金を使わずに貯めて、誰かの銀行口座に移すのでなく、自分の口座に置いたままにしておいたら?そうしたら、全体として貯蓄は増えるだろうか?そうはならないことは明らかだ。このような「貯金(金を使わない)」という「行為」は、文字通り何の出来事も起こらないということと同義である。
もっとも初歩的な会計用語で、貯蓄とは、所得から消費を引いた残りである。個々の家計を考えれば、当然と思えることが、全体的に考えるときには当然とは言えなくなる。というのは、全体で考えると、所得イコール消費だからだ。この等式は経済学を学ぶ時に最初に教わる経済循環の基礎の基礎である。貯蓄は、所得から消費を引いたものであるから、ゼロになる。
それでは貯金はどうやって可能になるのか?「貯金」とは、個々の家計にとって、国にとって、世界にとって、何を意味するだろうか?まず個々の家計で考えてみよう。家計貯蓄とは何か、日常的な考え方で見てみよう。
人は一生働き、ある程度、稼いだ金よりも少なく支出し、銀行口座に残りを貯める。口座のお金を、家や株や債券と引き換えにして、それが将来価値が上がることもあるだろう。最後には引退して「貯蓄」もしくはそこから得られる利息収入で生活する。こうした日常的な、個人の生活の話の中では、貯蓄(残高)は、純資産を意味する。バランスシート上、資産から負債を引いた残りが純資産である。いざ引退したときには、純資産、つまり貯蓄がいくらあるかが、真に意味を持つ数字だ。要はそれは「あなたにはいくらお金がありますか?」という意味だ。
しかし、マクロ的に考えたときの貯蓄となるとどうだろうか。国家会計にはその残高を図る方法がない。それは、家計の資産もしくは純資産の総計がいちばん近いだろう(外部保有資産もしくは負債がない場合、資産と純資産は同じになる。世界的に見れば、資産イコール純資産となる。火星人に借金はないからね。世界のバランスシートの貸方は、純資産のみである)ちなみに、米国の家計資産の総計は約101兆ドルである。純資産は約87兆ドルである。家計セクターは14兆ドルを他のセクターから借りている。(参照)
ここで重要なのは、家計はすべての企業を直接または間接に保有するということだ。ある会社は、他の会社に保有されるし、その会社がまた他の会社に保有されることもあるわけだが、究極的にはどこかの家計が保有することになる…(訳者注:一部、理解できない部分があり訳を省略しています。最下部に原文の該当部分を記載します)…つまり家計の純資産イコール民間セクターの純資産である。民間の資産の保有主体を勘定する場合、既存のモノと将来の生産物に対する与信の合算となるが、会計上の責任は家計ということになる。
「家計の純資産」を金額ベースで把握する方法は、国家会計で世の中の実際の価値をドルで推計するために最大限の努力をしたものと言える。完璧には程遠い。たとえば、政府の純資産との関係は極めて疑わしい。J.M メイソンによる、ドイツの家計の純資産が不気味なほど低いことに関する記事を参照してほしい。しかし、いまのところ手持ちの数字としては、もっとも実態に近い数字だ。
貯金は貯蓄額を増やさない。では総体として我々が「貯蓄する」ためにどうすればいいかというと、長持ちするモノを生産して、会計年度内で使わなければいい。機械屋はボール盤を生産し、大工は家をつくり、発明家は発明し、起業家は会社をつくり、エコノミストは本を書き、教師や学生は知識とスキルと能力を高める。こうした目に見える、もしくは見えないものを貯めて将来使えるならば、それは真に我々の総体としての富になる。
金融システムはこうしたもの(将来の生産物)に金融的な仕組みをつくって与信すればいい。当座預金口座の不足を補うドル紙幣でもいいし、債務の担保となる不動産権利証書でもいい。市場はそれに対するドルの価値を設定したり調整したりする。こうした与信を受ければ、将来、実際のモノを買ったり消費したりできることになる。これらは、(直接または間接に)既存のモノや将来の生産物の請求権利なのだ。市場は常に、将来の生産物の価格や価値に対する総合的な期待値にもとづいて、この与信に対する価格を調整する。期待が楽観的だったり、悲観的だったり、「アニマル・スピリッツ」が満ち溢れているかなどの状態によって調整されていくわけだ。
こうした制度を背景にしたとき、「貯金」問題がポイントとなる。エコノミストたちは、トウモロコシを貯めることとお金を貯めることを混同している。彼らは金額(実物に対する与信額)と、実物の蓄積を混合している。「金融資本」という言葉は矛盾話法だ。資本というのは実物である。ピケティその他が富と資本を同義語として使っているがそれも整合性が取れておらず、自己矛盾である。「資本の輸入が貿易赤字を相殺」という記事を見てほしい。
金融上の仕組みと実物貯蓄を混同しているので、我々は金額と実物の蓄積とを混同してしまうが、金額つまり金融の仕組みというのは、実物とは別物だ。これらの約束(与信)は、実際には何も持っていなくても作られる。(約束というのは安いもので、実際には無料でなされる)そしてそれらは、実際の生産に使われるわけではない。(約束を食えるわけではないし、それを工場のラインに乗せても何もできない)この、ドルとなるはずの与信、金額は、金融市場上で仕掛けをつくったりなくしたり、価格を再調整したりすることによって、つくられたりなくなったりしている(拡大、縮小ともいう)。
消費は我々の持つ実物を減らす。トウモロコシの消費量を減らせば、残るトウモロコシの量は増える。お金の支出は、実物在庫を減らすわけではない。お金の支出を減らしても、社会全体としては同じお金の量を持っている。
トウモロコシは生産されて消費される。金銭的な富は―我々の約束や与信を複雑にやりとりした後の正味の、ドルに換算した価値であるが―単に現れて消える。それが、われわれがお金と呼んでいる、社会会計上の構築物の魔法である。
実物の耐久消費財や富の計算について、ちょっと脱線になるが触れておきたい。ここにも、根絶に値する暗黙的な会計学上の論理ミスが広まっている。会計上の定義を考えてみよう。消費支出(C)は会計年度内に消費される生産物に対する支払いである。投資支出(I)は、会計年度を超えてモノを生産するために支払われる。C+Iが、Y(GDP)となる。
これは間違い。消費支出が増えると、投資支出が減る―そして実際のモノや富が減る、どうですか?違うでしょう。その考え方だと、Yが固定で、過去すでに会計的に決まった値であると想定している。もし我々がモノの消費を少なくしたら、単にYも減って、投資額は変わらない。行動科学で考えたらもっとひどい状況で、消費者が支出を減らしたら、企業は設備投資を減らして、どっちの支出も減って、合計のYはもっと減るだろう。
現代の仕組みにおいて、貯金と実物の関係はどうなるだろう。我々は、実物が増えていったとき、実際に蓄積されたものを、総合的にマネタイズし、貯蓄をつくりだすことはできるだろうか?3つの方法がある(どれも「個人的貯金とは無関係)
1.政府が債務を消費して実在化させること。財務省がドルを預金し、無からつくりだした金を、モノやサービスの対価として、民間セクターの当座預金口座に送り込む。これによって民間セクターのバランスシート上、資産が増える。この過程では民間セクターの負債は作り出されない。(財務省が国債を売って、Fedが買い戻しても、民間セクターの資産には影響しない。単に資産を交換するだけで、民間セクターのポートフォリオの中で国債と当座預金のバランスを変えるだけである。「経済的」には何らかの効果はあるかもしれないが)
2.銀行が新しくローンを発行し、無からドルを作り出すこと。このローンの発行では、民間セクターの資産が増える。しかし貸出/借入という行為それ自体は、純資産の総額に影響しない。借入側は、新しい資産に相当する負債を同時に引き受けるからだ。銀行による新しいローンは、3番目のメカニズムによって長期的にレバレッジが効果を出せば、純資産を増やす。
3.我々がより多くのモノやサービスを作って、それがより価値があると決めたり、新しい金融ツール(株や債券みたいなものの新しい発明)ができて、既存資産の市場がその仕掛けに価格をつければ、与信の総計が拡大して、拡大してきた実物の総額に匹敵するようになる。市場の拡大により家計が負債を増やさずに資産を増やす。そのため政府による債務支出のように、しかし銀行貸出とは異なる形で、市場拡大が家計の純資産を増やす。おやおや、家計のお金が増えたぞ。このやり方は「お金を刷る」方法として議論を呼んでいる。(これは「お金の節約」サギとして世の中を席捲していて、「財政均衡主義」病のもととなっている。このサギについてはシャーロッテ・ブルーン、カーステン・ヘイン-ジョンソンによるこの論文に詳しい。またこの論文では、貯金が純資産の変化とイコールではなく、所得を測定するのにキャピタルゲイン所得が含まれないという深刻な概念上の問題が指摘されていて、要注目である)
経済学の基礎となっている経済循環チャートは考え直されるべきである。
長期的には、我々の実物の合計と、我々がそうした実物に与えるドルベースの価値の合計は(バランスシートの資産または純資産として勘定された場合)だいたい同じになる。しかしそれは非常に長期の話で、何十年、何世紀もかかるかもしれないし、とりわけ、人々の考え方、文化的規律、制度、政治状況、金融政策レジーム、信念、地政学的状況、環境危機状況、技術的進歩の状況により変わってくる。ピケティの資本論が資本以外のことを描写していないなら、それはそうした現実を描き出しているのだ。
いろいろなことが我々の総合的な貯蓄に、実物としても金額的にも影響を与えているとはいえ、確実にいえることは、個人的に「お金を使わない」という行為は、我々の総合的な貯蓄額を増やさない。個人が金を貯めても、企業が使える資金となるわけではない。こうした考え方は会計の考え方として不整合である。
むしろ、経済上の効果はこうなるだろう。より多く支出されれば、より多くの生産がおこなわれる。(インセンティブが問題)そうするとより黒字が増えて、物は―耐久消費財にしろ、非耐久消費財にしろ―より価格が高くなる。耐久消費財の価値は、政府や金融システムにより、新たなドルベースの金融ツールや法制度によってつくりだされる与信によってマネタイズされ、既存の金融上の仕組みや与信に積み上がる。
一言でいうと、支出によってお金が増える。実物の、総合的な、長期に残存する物の総額が増えるということだ。お金を節約しても総合的には―今年のあなたの収入の一部を使わないという話ではなく―実物を増やしもしなければ、貯蓄額も増やさない。
悪魔の負債は、巨悪でも何でもない。むしろ、利己的な貯金や、債券の死蔵こそ、経済的大罪である。
注 (Firms’ liabilities are netted out of their net worth, by definition.) This because: Households don’t issue equity shares — their liability-side balancing item is net worth, not shareholder equity. Firms don’t own households. (Yet.) Companies’ net worth is telescoped onto the lefthand, asset side of household balance sheets.
もし誰かがお金を貯めて、他の人もみんなもっとお金を貯めたら、貯蓄は増えるだろうか?企業がもっとお金を借りられて、投資して、みんなの生活が楽になりますかね?家庭がお金を貯めれば、企業の投資資金が増える。つまりわれわれがみんな貯金すれば、世界はもっと生産的になって繁栄すると。よく聞く話だが、本当にそうだろうか?
実は、それは間違いだ。ナンセンスだ。筋の通らないたわごとだ。ちんぷんかんぷんのニセ科学で大ぼらだ。一部が真だからといって、全体についても当てはまると思う合成の誤謬だ。
節約のパラドックスについて聞いたことがあるだろう。みんながもっと貯金したら、支出が減り、所得も減る。所得が減れば総需要も減る。これは少なくとも表面的には、むしろわかりやすい話ではある。しかし真のパラドックスは複層的だ。「貯金」によって資産がどうなるかを考えたとき、それが、パラドックスの根幹にある。我々がもっと貯金したら、貯蓄は増えるのだろうか?
そもそも「貯蓄」を国家会計上測定することはできないことを理解しなければならない。エコノミストや解説者は安易にこの言葉を使っているが(バーナンキも「過剰貯蓄仮説」を唱えている)。米国の財務会計報告書である、連邦の四半期のZ1報告を見てみよう。おわかりだろうか。「貯金する」ことに関しては、さまざまな会計上の、フローに関する定義があって、測定は可能だが、そうした貯金によりどれだけが総合的に蓄積したかを把握するための測定方法はないのだ。(そのため、ストックとフロー間のモデルに問題が生じている)
それから、次の質問を考えてみてほしい。
あなたがお金を支出したとき―つまり、新たに生産された物やサービスの対価としてお金を誰かに渡した時、社会全体での貯蓄額はどう変わるだろうか?厳密に会計的に考えて、何も変わらない。あなたのお金は他の誰かの財布に移動するだけで、消滅するわけではない。あなたの銀行の預金は減るが、受取人の預金額は増える。この会計上のイベントでは、貯蓄額は全体としては何も変わらない(こうした金銭の移動によって引き起こされる経済的な効果というのはまた別の話だ)。誰かの支出は、他の誰かの所得である。逆もまた然り。
しかしもし、誰もお金を使わなかったら?お金を使わずに貯めて、誰かの銀行口座に移すのでなく、自分の口座に置いたままにしておいたら?そうしたら、全体として貯蓄は増えるだろうか?そうはならないことは明らかだ。このような「貯金(金を使わない)」という「行為」は、文字通り何の出来事も起こらないということと同義である。
もっとも初歩的な会計用語で、貯蓄とは、所得から消費を引いた残りである。個々の家計を考えれば、当然と思えることが、全体的に考えるときには当然とは言えなくなる。というのは、全体で考えると、所得イコール消費だからだ。この等式は経済学を学ぶ時に最初に教わる経済循環の基礎の基礎である。貯蓄は、所得から消費を引いたものであるから、ゼロになる。
それでは貯金はどうやって可能になるのか?「貯金」とは、個々の家計にとって、国にとって、世界にとって、何を意味するだろうか?まず個々の家計で考えてみよう。家計貯蓄とは何か、日常的な考え方で見てみよう。
人は一生働き、ある程度、稼いだ金よりも少なく支出し、銀行口座に残りを貯める。口座のお金を、家や株や債券と引き換えにして、それが将来価値が上がることもあるだろう。最後には引退して「貯蓄」もしくはそこから得られる利息収入で生活する。こうした日常的な、個人の生活の話の中では、貯蓄(残高)は、純資産を意味する。バランスシート上、資産から負債を引いた残りが純資産である。いざ引退したときには、純資産、つまり貯蓄がいくらあるかが、真に意味を持つ数字だ。要はそれは「あなたにはいくらお金がありますか?」という意味だ。
しかし、マクロ的に考えたときの貯蓄となるとどうだろうか。国家会計にはその残高を図る方法がない。それは、家計の資産もしくは純資産の総計がいちばん近いだろう(外部保有資産もしくは負債がない場合、資産と純資産は同じになる。世界的に見れば、資産イコール純資産となる。火星人に借金はないからね。世界のバランスシートの貸方は、純資産のみである)ちなみに、米国の家計資産の総計は約101兆ドルである。純資産は約87兆ドルである。家計セクターは14兆ドルを他のセクターから借りている。(参照)
ここで重要なのは、家計はすべての企業を直接または間接に保有するということだ。ある会社は、他の会社に保有されるし、その会社がまた他の会社に保有されることもあるわけだが、究極的にはどこかの家計が保有することになる…(訳者注:一部、理解できない部分があり訳を省略しています。最下部に原文の該当部分を記載します)…つまり家計の純資産イコール民間セクターの純資産である。民間の資産の保有主体を勘定する場合、既存のモノと将来の生産物に対する与信の合算となるが、会計上の責任は家計ということになる。
「家計の純資産」を金額ベースで把握する方法は、国家会計で世の中の実際の価値をドルで推計するために最大限の努力をしたものと言える。完璧には程遠い。たとえば、政府の純資産との関係は極めて疑わしい。J.M メイソンによる、ドイツの家計の純資産が不気味なほど低いことに関する記事を参照してほしい。しかし、いまのところ手持ちの数字としては、もっとも実態に近い数字だ。
貯金は貯蓄額を増やさない。では総体として我々が「貯蓄する」ためにどうすればいいかというと、長持ちするモノを生産して、会計年度内で使わなければいい。機械屋はボール盤を生産し、大工は家をつくり、発明家は発明し、起業家は会社をつくり、エコノミストは本を書き、教師や学生は知識とスキルと能力を高める。こうした目に見える、もしくは見えないものを貯めて将来使えるならば、それは真に我々の総体としての富になる。
金融システムはこうしたもの(将来の生産物)に金融的な仕組みをつくって与信すればいい。当座預金口座の不足を補うドル紙幣でもいいし、債務の担保となる不動産権利証書でもいい。市場はそれに対するドルの価値を設定したり調整したりする。こうした与信を受ければ、将来、実際のモノを買ったり消費したりできることになる。これらは、(直接または間接に)既存のモノや将来の生産物の請求権利なのだ。市場は常に、将来の生産物の価格や価値に対する総合的な期待値にもとづいて、この与信に対する価格を調整する。期待が楽観的だったり、悲観的だったり、「アニマル・スピリッツ」が満ち溢れているかなどの状態によって調整されていくわけだ。
こうした制度を背景にしたとき、「貯金」問題がポイントとなる。エコノミストたちは、トウモロコシを貯めることとお金を貯めることを混同している。彼らは金額(実物に対する与信額)と、実物の蓄積を混合している。「金融資本」という言葉は矛盾話法だ。資本というのは実物である。ピケティその他が富と資本を同義語として使っているがそれも整合性が取れておらず、自己矛盾である。「資本の輸入が貿易赤字を相殺」という記事を見てほしい。
金融上の仕組みと実物貯蓄を混同しているので、我々は金額と実物の蓄積とを混同してしまうが、金額つまり金融の仕組みというのは、実物とは別物だ。これらの約束(与信)は、実際には何も持っていなくても作られる。(約束というのは安いもので、実際には無料でなされる)そしてそれらは、実際の生産に使われるわけではない。(約束を食えるわけではないし、それを工場のラインに乗せても何もできない)この、ドルとなるはずの与信、金額は、金融市場上で仕掛けをつくったりなくしたり、価格を再調整したりすることによって、つくられたりなくなったりしている(拡大、縮小ともいう)。
消費は我々の持つ実物を減らす。トウモロコシの消費量を減らせば、残るトウモロコシの量は増える。お金の支出は、実物在庫を減らすわけではない。お金の支出を減らしても、社会全体としては同じお金の量を持っている。
トウモロコシは生産されて消費される。金銭的な富は―我々の約束や与信を複雑にやりとりした後の正味の、ドルに換算した価値であるが―単に現れて消える。それが、われわれがお金と呼んでいる、社会会計上の構築物の魔法である。
実物の耐久消費財や富の計算について、ちょっと脱線になるが触れておきたい。ここにも、根絶に値する暗黙的な会計学上の論理ミスが広まっている。会計上の定義を考えてみよう。消費支出(C)は会計年度内に消費される生産物に対する支払いである。投資支出(I)は、会計年度を超えてモノを生産するために支払われる。C+Iが、Y(GDP)となる。
これは間違い。消費支出が増えると、投資支出が減る―そして実際のモノや富が減る、どうですか?違うでしょう。その考え方だと、Yが固定で、過去すでに会計的に決まった値であると想定している。もし我々がモノの消費を少なくしたら、単にYも減って、投資額は変わらない。行動科学で考えたらもっとひどい状況で、消費者が支出を減らしたら、企業は設備投資を減らして、どっちの支出も減って、合計のYはもっと減るだろう。
現代の仕組みにおいて、貯金と実物の関係はどうなるだろう。我々は、実物が増えていったとき、実際に蓄積されたものを、総合的にマネタイズし、貯蓄をつくりだすことはできるだろうか?3つの方法がある(どれも「個人的貯金とは無関係)
1.政府が債務を消費して実在化させること。財務省がドルを預金し、無からつくりだした金を、モノやサービスの対価として、民間セクターの当座預金口座に送り込む。これによって民間セクターのバランスシート上、資産が増える。この過程では民間セクターの負債は作り出されない。(財務省が国債を売って、Fedが買い戻しても、民間セクターの資産には影響しない。単に資産を交換するだけで、民間セクターのポートフォリオの中で国債と当座預金のバランスを変えるだけである。「経済的」には何らかの効果はあるかもしれないが)
2.銀行が新しくローンを発行し、無からドルを作り出すこと。このローンの発行では、民間セクターの資産が増える。しかし貸出/借入という行為それ自体は、純資産の総額に影響しない。借入側は、新しい資産に相当する負債を同時に引き受けるからだ。銀行による新しいローンは、3番目のメカニズムによって長期的にレバレッジが効果を出せば、純資産を増やす。
3.我々がより多くのモノやサービスを作って、それがより価値があると決めたり、新しい金融ツール(株や債券みたいなものの新しい発明)ができて、既存資産の市場がその仕掛けに価格をつければ、与信の総計が拡大して、拡大してきた実物の総額に匹敵するようになる。市場の拡大により家計が負債を増やさずに資産を増やす。そのため政府による債務支出のように、しかし銀行貸出とは異なる形で、市場拡大が家計の純資産を増やす。おやおや、家計のお金が増えたぞ。このやり方は「お金を刷る」方法として議論を呼んでいる。(これは「お金の節約」サギとして世の中を席捲していて、「財政均衡主義」病のもととなっている。このサギについてはシャーロッテ・ブルーン、カーステン・ヘイン-ジョンソンによるこの論文に詳しい。またこの論文では、貯金が純資産の変化とイコールではなく、所得を測定するのにキャピタルゲイン所得が含まれないという深刻な概念上の問題が指摘されていて、要注目である)
経済学の基礎となっている経済循環チャートは考え直されるべきである。
長期的には、我々の実物の合計と、我々がそうした実物に与えるドルベースの価値の合計は(バランスシートの資産または純資産として勘定された場合)だいたい同じになる。しかしそれは非常に長期の話で、何十年、何世紀もかかるかもしれないし、とりわけ、人々の考え方、文化的規律、制度、政治状況、金融政策レジーム、信念、地政学的状況、環境危機状況、技術的進歩の状況により変わってくる。ピケティの資本論が資本以外のことを描写していないなら、それはそうした現実を描き出しているのだ。
いろいろなことが我々の総合的な貯蓄に、実物としても金額的にも影響を与えているとはいえ、確実にいえることは、個人的に「お金を使わない」という行為は、我々の総合的な貯蓄額を増やさない。個人が金を貯めても、企業が使える資金となるわけではない。こうした考え方は会計の考え方として不整合である。
むしろ、経済上の効果はこうなるだろう。より多く支出されれば、より多くの生産がおこなわれる。(インセンティブが問題)そうするとより黒字が増えて、物は―耐久消費財にしろ、非耐久消費財にしろ―より価格が高くなる。耐久消費財の価値は、政府や金融システムにより、新たなドルベースの金融ツールや法制度によってつくりだされる与信によってマネタイズされ、既存の金融上の仕組みや与信に積み上がる。
一言でいうと、支出によってお金が増える。実物の、総合的な、長期に残存する物の総額が増えるということだ。お金を節約しても総合的には―今年のあなたの収入の一部を使わないという話ではなく―実物を増やしもしなければ、貯蓄額も増やさない。
悪魔の負債は、巨悪でも何でもない。むしろ、利己的な貯金や、債券の死蔵こそ、経済的大罪である。
注 (Firms’ liabilities are netted out of their net worth, by definition.) This because: Households don’t issue equity shares — their liability-side balancing item is net worth, not shareholder equity. Firms don’t own households. (Yet.) Companies’ net worth is telescoped onto the lefthand, asset side of household balance sheets.
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