【読書感想文】稲葉振一郎『経済学という教養』

稲葉振一郎さんの『経済学という教養』は示唆に富んだ本で、あちこち興味深いけれど、序盤で特に面白いところは、古典的ミクロ経済学→実物的ケインジアン→貨幣的ケインジアンと経済学が(経済学者が?)進化(変化?)していく場面。

実物的ケインジアンから貨幣的ケインジアンの説明に移る時に、「不確実性」というパラメーターが加わるのだけど、そのとたんに「そりゃそうだよな!」とひざを打つような、「天啓がひらめいた」みたいな(大げさ)、そんな気分になる。

だが、これに対して別の考え方もあるだろう。そもそも「流動性選好」とはいったい何なのか、人々が積極的に貨幣そのもの、具体的モノ・サービスではなく抽象的な購買力、「流動性」そのものを欲する理由とは何なのか?この問いに対する一つの有力な回答は、「不確実性から身を守るため」である。

不況下で、みんなが一所懸命節約して、おカネを貯めているのはなぜか?失業の不安や老後の不安があるからだ。もしものときに備えておくだめだ。


だからこの不安を減じれば、みんなお金を消費したり、将来の投資に回すようになるはず。

不安を減じるには、職が将来にわたってなくならないこと、もしくは生活が保障されることが重要で、社会に十分な雇用をつくり出し、社会保障を充実させるためには、お金の量が増えていくという実感(=期待)が存在することが重要だという話につながっていくんだと思う(つまり、リフレーション政策)。

この序盤でまず語られているのは社会全体で経済が不調におちいっているときに、「個人の努力」「個々のブレイクスルーによるイノベーション」「個別の制度改革」で成し得ることには限界があるどころか、合成の誤謬によって、全体としてはまったくネガティブなインパクトしかもたらさないということ。

古典的なミクロ経済学や実物的ケインジアンは、人間が合理的で、皆が努力すれば市場は自然に均衡し、人は努力の分だけ報われると夢想している。でも実際にはそうではなく、人は不合理なものだ。もうちょっと正確にいうと、人はその人の分かり得る範囲で合理的なんだけど、結果的に不合理になったり、他人との不整合が起きてしまう。その齟齬は、個人の努力などでは決して完全に埋めることはできない。そういう見方の方が、現実に即しているとわたしは思う。

(ニュー・ケインジアンI・IIは)現実の人間や企業がそこまで賢くないことは、彼らは承知しているからだ。しかし彼らの頭の片隅には、現実の人間や企業はそこに決して到達できないが、しかし理論的には確かに存在する完璧な合理性という理想がなお巣くっている。
だがニューケインジアンIIIの眼から見れば、事態は相当に違ってくる。彼らは理論的にさえ完全な合理性というものを想定しない。逆に言えば、人はすべてほどほどに非合理的、つまりは、ほどほどに合理的である。目先の株価・地価の動向に一喜一憂して、短期的なキャピタル・ゲインを求めて右往左往、という振舞いも、不確実な世の中に放り出された無知なる者としては十分に合理的な行動だし、それ以上のことを期待することはそもそもできない、というわけだ。


<おまけ>触発されて描いてみたポンチ絵(経済学素人で、まだよくわかってないのでかなり適当です。リバイス予定)

reflation_20130701_1.jpg

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経済学という教養 (ちくま文庫)経済学という教養 (ちくま文庫)
(2008/07/09)
稲葉 振一郎

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