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(読書感想)『この経済政策が民主主義を救う』

最近話題の松尾匡さん著『この経済政策が民主主義を救う』を拝読。松尾さんは、安倍自民政権を、国民主権と民主主義の脅威ととらえ、野党は連合して安倍自民を上回る経済成長政策、「真っ赤に燃えるような景気拡大」を訴えて、まずは政権を奪取しろと説く。



さて、安倍自民党とくれば、イメージは、美しい日本・美しい家族の助け合い。そこに合わない人は助ける価値がなく、個人の失敗も、生まれ育ちも自己責任なのだから、金がなければひたすら貧しく慎ましく暮らせ、という曽野綾子的世界観だ。

そして、何が正しいかは政府が決めるから、国民は心配もしなくていいし、何も知らなくていい。日本が過去にやったことはすべて仕方がなかったか、酷い行為は他国のでっち上げという態度。

私はそんな安倍自民党には早く退陣してほしい。

ところが野党を見れば、前政権の民主党(現民進党)の方針ときたら、政府は金を出せないから市民は助け合って慎ましく暮らせという方針。高齢化だから医療費と年金の維持のためにどんどん税を取りますといって、市民が消費を切り詰めることを奨励する。企業は国内では儲からないので海外に出るか、国内での賃金を切り詰めて生き延びるしかない。そして貧しい人が増えては固定化し、閉塞感が蔓延する。貧しい人が増えるから税収入も減り、ますます社会保障の切り詰めに走る悪循環となる。

「それは菅や野田、岡田路線だ、鳩山と小沢の時は違った」という人は、「新しい公共」というスローガンがいつ謳われたか思い出すべきだ。NPOの代表理事である駒崎氏のブログに書かれている通り。

公共を支える自治体や国に税として納めるか、もしくは公共を支える民間主体であるNPOに寄付として社会投資するか、を市民が主体的に選択するのです。

国や自治体等の官が全ての公共的分野を担える時代は終わりました。社会的課題は多様化し、刻一刻と進むグローバル化・情報化に、行政の意思決定のスピードでは追いつけなくなりました。小回りがきき、これまでなかった手法に挑戦する、民間で公共を担う主体が必要になってきたのです。
http://komazaki.seesaa.net/article/134977378.html


しかし、公共サービスが必要な全ての場所に、そんな民間が存在するものだろうか。そうではないから「公共」が必要なのだ。地域によって、必要だけれども成り立たなかったり、構想してから実現するまでに人の一生程度では足りないようなもの。

官を減らすことが美徳であるかのような、小さな政府志向は、すでに鳩山政権の時からあった。

『この経済政策が民主主義を救う』は、そんな状況は打破されなければならないと訴える。日本に、欧米では左派のスタンダードとなりつつある経済政策―社会民主主義的な政策―を前面に押し出す左派政党が出てこなければならない。そうしなければ、格差は縮小せず、社会保障は充実せず、弱者手当だけでなく国民の活力と希望を引き出す制度を備えた国家に、永遠になり損ねてしまう。

まず警告として、安倍自民党がいかに状況を利用して勢力を維持できているか、そして今後の経済状況の展開を選挙スケジュールにどのように利用するか、可能性のあるシナリオを示す。かなりありそうで怖いシナリオだ。

次に、今の経済状況がどのようか、多くの経済データを挙げて説明している。どれも経済学に明るくなくても理解できる、一般の新聞に良く載るようなグラフで、本文で分かりやすく解説されている。

それらの中には良いデータもあれば、悪化を示すものもある。1つ悪いからアベノミクスがダメだなどと考えると状況を見誤り、見誤ったまま主張していると世論からソッポを向かれ、安倍自民党の思うツボとなる。こうしたデータのどれがどう良くて、どれがどう悪いのか、きちんと把握することが重要だ。

たとえば、ベースマネーの増え方と企業の設備投資のグラフを見れば、それなりの効果は出ている。そうしたことをキチンと押さえておかなければいけない。

それから、「日本は十分豊かだ。みんな贅沢しなければいい」といった言説があるが、決してそうではないことが、いくつものデータとともに解説されている。栄養摂取量や淋病罹患率、失業率、自殺率…。高度成長期を過ごした人たちや、もともと恵まれて頭が良く品も良く厳格な人たちが想定するような、貧しくても安寧な生活などというものはない。金がある程度稼げなければ、不安定で希望もない。閉塞感に満ちている。そうしたことがデータでわかる。

そして、安保や原発政策では多くの人が与党に反対なのに、なぜか支持率は低下しない。そうした状況について、データだけでなく、前回の都知事選で宇都宮氏と田母神氏の間で迷う若者の様子をまじえながら現状を描き、警告を発している。

ではどういう経済政策を訴えるべきか。金融緩和は基本として行っておき、国債を発行して最終的には日銀が引き受ければ、世の中のお金を吸い上げずに政府が使える。そうしておいて、福祉、医療、教育、子育てに十分にあてていく。

不足していた公共サービスが充実し、国民が雇われて、賃金が払われるから総需要が回復。内需企業の業績見込みも上昇し、雇用がますます増えて賃金にも反映されるようになる。好循環が生まれる。

ここで問題なのは、世の中には国の債務増大への不安感が強いことである。しかしこれについても、少なくとも当面は心配する必要はないことの理由、将来的には状況に応じて実施できる有効な対処法も書かれている。

世界の左派について解説している章は、非常に興味深いリストとなっている。スウェーデン社会民主党、イギリス労働党党首コービン、スペイン左翼政党ポデモス、欧州労連、欧州左翼党、アメリカで社会主義者を自称する次期大統領選の民主党候補者の一人、サンダース。すべてが反緊縮で、人民のためにお金を使おうと訴えている。

経済学者ではクルーグマン、スティグリッツ、ピケティ、アマルティア・センの名前が挙がる。

安倍政権の経済政策には弱点がある。まだ主流派経済学の新古典派的政策がいくつも入り込んでいる点だ。左派の野党はそこを改善した提案を打ち出していくべきだとわかる。

新古典派とは何かも簡単に解説されており、それに対抗するケインズ経済学がかつて誤って理解されていた部分の説明や、ちゃんと解釈すれば、完全にいまの総需要刺激策になり得ることの説明もある。

これから、安倍政権の経済政策を上回る総需要刺激策を出そうという人たちが持つべき知識は、ここにある。これで完全ではないとしても(経済学は膨大な体系だ)、ほとんどの手がかりが示されている。


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(拙訳)エコノミストへ。お金を貯めても貯蓄になりません(貯金こそ罪)

今週はevonomics | The Next Evolution of Economicsというサイトから、「エコノミストへ。お金を貯めても貯蓄になりません。(貯金こそ罪)」と題された記事を紹介。



もし誰かがお金を貯めて、他の人もみんなもっとお金を貯めたら、貯蓄は増えるだろうか?企業がもっとお金を借りられて、投資して、みんなの生活が楽になりますかね?家庭がお金を貯めれば、企業の投資資金が増える。つまりわれわれがみんな貯金すれば、世界はもっと生産的になって繁栄すると。よく聞く話だが、本当にそうだろうか?

実は、それは間違いだ。ナンセンスだ。筋の通らないたわごとだ。ちんぷんかんぷんのニセ科学で大ぼらだ。一部が真だからといって、全体についても当てはまると思う合成の誤謬だ。

節約のパラドックスについて聞いたことがあるだろう。みんながもっと貯金したら、支出が減り、所得も減る。所得が減れば総需要も減る。これは少なくとも表面的には、むしろわかりやすい話ではある。しかし真のパラドックスは複層的だ。「貯金」によって資産がどうなるかを考えたとき、それが、パラドックスの根幹にある。我々がもっと貯金したら、貯蓄は増えるのだろうか?

そもそも「貯蓄」を国家会計上測定することはできないことを理解しなければならない。エコノミストや解説者は安易にこの言葉を使っているが(バーナンキも「過剰貯蓄仮説」を唱えている)。米国の財務会計報告書である、連邦の四半期のZ1報告を見てみよう。おわかりだろうか。「貯金する」ことに関しては、さまざまな会計上の、フローに関する定義があって、測定は可能だが、そうした貯金によりどれだけが総合的に蓄積したかを把握するための測定方法はないのだ。(そのため、ストックとフロー間のモデルに問題が生じている)

それから、次の質問を考えてみてほしい。

あなたがお金を支出したとき―つまり、新たに生産された物やサービスの対価としてお金を誰かに渡した時、社会全体での貯蓄額はどう変わるだろうか?厳密に会計的に考えて、何も変わらない。あなたのお金は他の誰かの財布に移動するだけで、消滅するわけではない。あなたの銀行の預金は減るが、受取人の預金額は増える。この会計上のイベントでは、貯蓄額は全体としては何も変わらない(こうした金銭の移動によって引き起こされる経済的な効果というのはまた別の話だ)。誰かの支出は、他の誰かの所得である。逆もまた然り。

しかしもし、誰もお金を使わなかったら?お金を使わずに貯めて、誰かの銀行口座に移すのでなく、自分の口座に置いたままにしておいたら?そうしたら、全体として貯蓄は増えるだろうか?そうはならないことは明らかだ。このような「貯金(金を使わない)」という「行為」は、文字通り何の出来事も起こらないということと同義である。

もっとも初歩的な会計用語で、貯蓄とは、所得から消費を引いた残りである。個々の家計を考えれば、当然と思えることが、全体的に考えるときには当然とは言えなくなる。というのは、全体で考えると、所得イコール消費だからだ。この等式は経済学を学ぶ時に最初に教わる経済循環の基礎の基礎である。貯蓄は、所得から消費を引いたものであるから、ゼロになる。

それでは貯金はどうやって可能になるのか?「貯金」とは、個々の家計にとって、国にとって、世界にとって、何を意味するだろうか?まず個々の家計で考えてみよう。家計貯蓄とは何か、日常的な考え方で見てみよう。

人は一生働き、ある程度、稼いだ金よりも少なく支出し、銀行口座に残りを貯める。口座のお金を、家や株や債券と引き換えにして、それが将来価値が上がることもあるだろう。最後には引退して「貯蓄」もしくはそこから得られる利息収入で生活する。こうした日常的な、個人の生活の話の中では、貯蓄(残高)は、純資産を意味する。バランスシート上、資産から負債を引いた残りが純資産である。いざ引退したときには、純資産、つまり貯蓄がいくらあるかが、真に意味を持つ数字だ。要はそれは「あなたにはいくらお金がありますか?」という意味だ。

しかし、マクロ的に考えたときの貯蓄となるとどうだろうか。国家会計にはその残高を図る方法がない。それは、家計の資産もしくは純資産の総計がいちばん近いだろう(外部保有資産もしくは負債がない場合、資産と純資産は同じになる。世界的に見れば、資産イコール純資産となる。火星人に借金はないからね。世界のバランスシートの貸方は、純資産のみである)ちなみに、米国の家計資産の総計は約101兆ドルである。純資産は約87兆ドルである。家計セクターは14兆ドルを他のセクターから借りている。(参照

ここで重要なのは、家計はすべての企業を直接または間接に保有するということだ。ある会社は、他の会社に保有されるし、その会社がまた他の会社に保有されることもあるわけだが、究極的にはどこかの家計が保有することになる…(訳者注:一部、理解できない部分があり訳を省略しています。最下部に原文の該当部分を記載します)…つまり家計の純資産イコール民間セクターの純資産である。民間の資産の保有主体を勘定する場合、既存のモノと将来の生産物に対する与信の合算となるが、会計上の責任は家計ということになる。

「家計の純資産」を金額ベースで把握する方法は、国家会計で世の中の実際の価値をドルで推計するために最大限の努力をしたものと言える。完璧には程遠い。たとえば、政府の純資産との関係は極めて疑わしい。J.M メイソンによる、ドイツの家計の純資産が不気味なほど低いことに関する記事を参照してほしい。しかし、いまのところ手持ちの数字としては、もっとも実態に近い数字だ。

貯金は貯蓄額を増やさない。では総体として我々が「貯蓄する」ためにどうすればいいかというと、長持ちするモノを生産して、会計年度内で使わなければいい。機械屋はボール盤を生産し、大工は家をつくり、発明家は発明し、起業家は会社をつくり、エコノミストは本を書き、教師や学生は知識とスキルと能力を高める。こうした目に見える、もしくは見えないものを貯めて将来使えるならば、それは真に我々の総体としての富になる。

金融システムはこうしたもの(将来の生産物)に金融的な仕組みをつくって与信すればいい。当座預金口座の不足を補うドル紙幣でもいいし、債務の担保となる不動産権利証書でもいい。市場はそれに対するドルの価値を設定したり調整したりする。こうした与信を受ければ、将来、実際のモノを買ったり消費したりできることになる。これらは、(直接または間接に)既存のモノや将来の生産物の請求権利なのだ。市場は常に、将来の生産物の価格や価値に対する総合的な期待値にもとづいて、この与信に対する価格を調整する。期待が楽観的だったり、悲観的だったり、「アニマル・スピリッツ」が満ち溢れているかなどの状態によって調整されていくわけだ。

こうした制度を背景にしたとき、「貯金」問題がポイントとなる。エコノミストたちは、トウモロコシを貯めることとお金を貯めることを混同している。彼らは金額(実物に対する与信額)と、実物の蓄積を混合している。「金融資本」という言葉は矛盾話法だ。資本というのは実物である。ピケティその他が富と資本を同義語として使っているがそれも整合性が取れておらず、自己矛盾である。「資本の輸入が貿易赤字を相殺」という記事を見てほしい。

金融上の仕組みと実物貯蓄を混同しているので、我々は金額と実物の蓄積とを混同してしまうが、金額つまり金融の仕組みというのは、実物とは別物だ。これらの約束(与信)は、実際には何も持っていなくても作られる。(約束というのは安いもので、実際には無料でなされる)そしてそれらは、実際の生産に使われるわけではない。(約束を食えるわけではないし、それを工場のラインに乗せても何もできない)この、ドルとなるはずの与信、金額は、金融市場上で仕掛けをつくったりなくしたり、価格を再調整したりすることによって、つくられたりなくなったりしている(拡大、縮小ともいう)。

消費は我々の持つ実物を減らす。トウモロコシの消費量を減らせば、残るトウモロコシの量は増える。お金の支出は、実物在庫を減らすわけではない。お金の支出を減らしても、社会全体としては同じお金の量を持っている。

トウモロコシは生産されて消費される。金銭的な富は―我々の約束や与信を複雑にやりとりした後の正味の、ドルに換算した価値であるが―単に現れて消える。それが、われわれがお金と呼んでいる、社会会計上の構築物の魔法である。

実物の耐久消費財や富の計算について、ちょっと脱線になるが触れておきたい。ここにも、根絶に値する暗黙的な会計学上の論理ミスが広まっている。会計上の定義を考えてみよう。消費支出(C)は会計年度内に消費される生産物に対する支払いである。投資支出(I)は、会計年度を超えてモノを生産するために支払われる。C+Iが、Y(GDP)となる。

これは間違い。消費支出が増えると、投資支出が減る―そして実際のモノや富が減る、どうですか?違うでしょう。その考え方だと、Yが固定で、過去すでに会計的に決まった値であると想定している。もし我々がモノの消費を少なくしたら、単にYも減って、投資額は変わらない。行動科学で考えたらもっとひどい状況で、消費者が支出を減らしたら、企業は設備投資を減らして、どっちの支出も減って、合計のYはもっと減るだろう。

現代の仕組みにおいて、貯金と実物の関係はどうなるだろう。我々は、実物が増えていったとき、実際に蓄積されたものを、総合的にマネタイズし、貯蓄をつくりだすことはできるだろうか?3つの方法がある(どれも「個人的貯金とは無関係)

1.政府が債務を消費して実在化させること。財務省がドルを預金し、無からつくりだした金を、モノやサービスの対価として、民間セクターの当座預金口座に送り込む。これによって民間セクターのバランスシート上、資産が増える。この過程では民間セクターの負債は作り出されない。(財務省が国債を売って、Fedが買い戻しても、民間セクターの資産には影響しない。単に資産を交換するだけで、民間セクターのポートフォリオの中で国債と当座預金のバランスを変えるだけである。「経済的」には何らかの効果はあるかもしれないが)

2.銀行が新しくローンを発行し、無からドルを作り出すこと。このローンの発行では、民間セクターの資産が増える。しかし貸出/借入という行為それ自体は、純資産の総額に影響しない。借入側は、新しい資産に相当する負債を同時に引き受けるからだ。銀行による新しいローンは、3番目のメカニズムによって長期的にレバレッジが効果を出せば、純資産を増やす。

3.我々がより多くのモノやサービスを作って、それがより価値があると決めたり、新しい金融ツール(株や債券みたいなものの新しい発明)ができて、既存資産の市場がその仕掛けに価格をつければ、与信の総計が拡大して、拡大してきた実物の総額に匹敵するようになる。市場の拡大により家計が負債を増やさずに資産を増やす。そのため政府による債務支出のように、しかし銀行貸出とは異なる形で、市場拡大が家計の純資産を増やす。おやおや、家計のお金が増えたぞ。このやり方は「お金を刷る」方法として議論を呼んでいる。(これは「お金の節約」サギとして世の中を席捲していて、「財政均衡主義」病のもととなっている。このサギについてはシャーロッテ・ブルーン、カーステン・ヘイン-ジョンソンによるこの論文に詳しい。またこの論文では、貯金が純資産の変化とイコールではなく、所得を測定するのにキャピタルゲイン所得が含まれないという深刻な概念上の問題が指摘されていて、要注目である)

経済学の基礎となっている経済循環チャートは考え直されるべきである。

長期的には、我々の実物の合計と、我々がそうした実物に与えるドルベースの価値の合計は(バランスシートの資産または純資産として勘定された場合)だいたい同じになる。しかしそれは非常に長期の話で、何十年、何世紀もかかるかもしれないし、とりわけ、人々の考え方、文化的規律、制度、政治状況、金融政策レジーム、信念、地政学的状況、環境危機状況、技術的進歩の状況により変わってくる。ピケティの資本論が資本以外のことを描写していないなら、それはそうした現実を描き出しているのだ。

いろいろなことが我々の総合的な貯蓄に、実物としても金額的にも影響を与えているとはいえ、確実にいえることは、個人的に「お金を使わない」という行為は、我々の総合的な貯蓄額を増やさない。個人が金を貯めても、企業が使える資金となるわけではない。こうした考え方は会計の考え方として不整合である。

むしろ、経済上の効果はこうなるだろう。より多く支出されれば、より多くの生産がおこなわれる。(インセンティブが問題)そうするとより黒字が増えて、物は―耐久消費財にしろ、非耐久消費財にしろ―より価格が高くなる。耐久消費財の価値は、政府や金融システムにより、新たなドルベースの金融ツールや法制度によってつくりだされる与信によってマネタイズされ、既存の金融上の仕組みや与信に積み上がる。

一言でいうと、支出によってお金が増える。実物の、総合的な、長期に残存する物の総額が増えるということだ。お金を節約しても総合的には―今年のあなたの収入の一部を使わないという話ではなく―実物を増やしもしなければ、貯蓄額も増やさない。

悪魔の負債は、巨悪でも何でもない。むしろ、利己的な貯金や、債券の死蔵こそ、経済的大罪である。

注  (Firms’ liabilities are netted out of their net worth, by definition.) This because: Households don’t issue equity shares — their liability-side balancing item is net worth, not shareholder equity. Firms don’t own households. (Yet.) Companies’ net worth is telescoped onto the lefthand, asset side of household balance sheets.


洗脳と主流派経済学

最近見たツイートで面白かったもの

進学しなくていいから、もう少し普通のテキストを読んで欲しい気がします。RT 鍵: @APISIer氏はMMTなどに洗脳されずに、普通に経済学の大学院進学して本格的に経済学勉強してみたら、と思っている。


「鍵」となっているのは主流派経済学者さんらしいですねw

さてこのツイートを興味深く眺めたところで、次の記事を見てみましょう。

現実世界の経済学 Globalization and Society: 賃金主導型の成長を擁護する

ピグーの本は、簡単に要約すると、高い実質賃金(または実質賃金の上昇)が失業を拡大する、と主張するものでした。ケインズは、このピグーの結論を支える2つの公準があると指摘していました。
 2つの公準のうち一つは、実質賃金が高いほど労働供給(労働者が働きたいと考える時間)が多く、実質賃金が低いほど労働供給が少ないという傾向があるというものですが、これが成立しないことは、ちょっと考えれば誰でもわかります。もし賃金率が低いのに、わずかな時間しか働かなければ、所得はものすごく少なくなるでしょう。普通は逆です。一定の所得を得るためには、より長い時間は働く必要があります。また賃金率が上がれば、人はより短い労働時間で以前と同じ所得を実現することができます。(これは、アメリカのダグラス大佐『賃金の理論』(1936年)で実証されています。)
 それによく考えると、労働供給は、ほとんど長期の歴史的・社会的・文化的条件によって決まっています。例えば今年22歳になって働き始める人は、22年前に生まれているのです。現在の賃金率が高いから22年前にさかのぼって生まれたわけではありません。ま昔はた多くの人が15歳には働いていましたが、現在の日本では20歳で働いている人の方がはるかに少ないことは誰でも知っています。
 そこで、ラフに言うと、短期には労働供給は一定と考えてもよいでしょう。いずれにせよ、ピグーの公準の一つは崩れました。


私は一昨年、スティグリッツの経済学の入門本を読もうとして、挫折した経験がありまして。

そのポイントがまさにこれに関連するところでした。

労働の供給曲線がよくわからない…(昼休みに『入門経済学』を見ています)「賃金が高くなると労働に対する報酬が多くなるため、人々は(労働時間を増やし)余暇を減らす代わりに財の消費を増やそうとする」直感的にわからないw
(2013年6月2日)
https://twitter.com/alicewonder113/status/341037734762274816

賃金が高くなるほど労働時間を増やす?
(2013年6月2日)
https://twitter.com/alicewonder113/status/341037904916774913



当時、私に「それはね、こういえばいいかな」的に教えてくれる方々がいらっしゃって、それでもわからなくて、「経済学ってのは、専門的に学ばないとだめなんだな」と諦めたものでした。

しかし、どうも公準自体、実証研究やそもそも論で、崩れ去る程度のもののように思えます。

洗脳されているのはMMTerなのか、主流派経済学シンパなのか、さあどっちですかね。

なお、スティグリッツの入門本は、単に主流派経済学の基礎を並べただけのものですから、スティグリッツに文句は言いません。(私はスティグリッツはクルーグマンより信頼しています)

アバ・ラーナーの機能的財政

訳してみました。たいへん面白い。

元のサイト
Abba Lerner (1943): "Functional Finance"



政府の第一の財政上の責任は(他の誰もその責任を引き受けられないことから)国の財とサービスの消費の総量を一定に維持することである。一定というのは、産み出されるすべての財とサービスが買われるような量のことである。消費の総量がこの量を上回れば、インフレが起こり、これを下回れば、失業が発生する。政府は、自身の支出を増やすことによって消費の総量を増やすことができる。また、減税して、納税者の可処分所得を増やしても消費の総量を増やせる。政府は、自身の支出を減らしたり、増税することによって、消費量を減らすことができる。

この機能的財政の第一法則からみて、政府が支出よりも多く徴税していたり、徴税よりも多く支出していたりしている場合がある。後者の場合は借入によるものか、金を刷っているかによって異なるのだが。どちらのケースでも、政府はこの結果について良いことだとか悪いことだとかいう風に考える必要はない。

興味深いことに、また多くの人にはショッキングでもありそうだが、必然的に考えられることは、単に政府が金の支払いを必要とするからといって税金の徴収が行なわれるべきではない。税の徴収は、納税者が消費できる金の量を減らすという目的で行われるべきなのだ。たとえばインフレを回避するために、とか。

政府は、国民が金を持たず国債を多く持つことが望ましいと考えられる場合にのみ金を借り入れるべきである。他の場合では、あまりにも金利を低くしていて、投資が過剰に誘発されており、インフレが予想される場合にも望ましいこともあるだろう。

金を刷るという行為に対してわれわれは直観的に嫌悪感を持つし、すぐそれをインフレと結びつけたがるが、これらは、金を刷ること自体は金の消費の総量には影響しないのだとわかれば克服できるだろう。

機能的財政の考え方は、伝統的な「健全な財政」主義を完全に否定するものだ。失業とインフレを防止するために、国民が保有する金と公共債の量を調節し、消費の総量を調節するということだ。そして投資の面からみてもっとも望ましいレベルの金利を達成する。必要に応じて、金を刷ったり、貯めたり、消滅させたりすれば良いのだ。

結果として、国の債務が増え続けるということになるかも知れない。しかし、機能的財政が現在の生産量に応じて需要を適切なレベルに維持しているかぎり、危険性はない。それに、機能的財政を適用した結果、長期的には予算が均衡していく自律的な傾向がある。財政均衡主義の居場所などないにも関わらず。

国民が貸し続けるかぎりにおいて、国の債務が何桁になっても何の差支えもない。国民が貸し続けるのを嫌がり始めたら、そして貯蓄をし始めたら、政府は金利やその他の債券に耐えられるようにカネを刷れば良い。それでどうなるかといえば、国民が国債の代わりに政府の通貨を保有するということであり、政府は利払いの増加から解放されるというだけだ。国民が消費して、消費の総量が増えれば、政府は借入の必要がなくなる。そして消費の総量があまりにも大きくなり過ぎたら、そのときこそインフレを防止するために課税すべきときだ。いずれのケースでも、機能的財政は、シンプルで、準自動的な結果を期待できる。




スティグリッツ『不平等のコスト』、それと英国の左派経済学の不在を嘆くブログ

予定を変更。

ジョセフ・E・スティグリッツ『世界の99%を貧困にする経済(原題は"THE PRICE OF INEQUALITY"(不平等のコスト))』を読んで、深く引き込まれるものがあったので、まずは少し紹介。

スティグリッツは徹底的に経済的不平等を攻撃している。彼の主張のいくつかは次のようにまとめられると思う。

  • 現在のアメリカのような経済格差は行きすぎだ。格差を縮小し、公平な社会が実現するように、政府が役割を果たさねばならない。
  • 完全雇用が回復され、維持されなければならない。
  • 金融機関や独占的企業が政権と関わることによるレントシーキング(超過利潤の追求)を撲滅しなければならない。
  • 富裕層にはより強い課税をかけ、貧困層には減税や給付することで格差をなくし、不足している需要を活発化させ、経済を活性化する。
  • 教育や研究やインフラに十分に投資されなければならない。
  • そのためには政府は負債を恐れず、十分に需要が起こるまで資金を供給する必要がある。(そうすれば税収が増え、いずれ負債もなくなる)インフレは引き締める必要がない。バブルはその原因によって対処が異なるのであり、全体的な金利で対応するものではない。

スティグリッツは「大きな不平等はそれほど悪いものではない、なぜならそういう大きな不平等のない世界で生きるよりも全員が豊かに暮らせるのだから」とほのめかす考え方に反論し、次のように言う。

しかし、この戦いの反対陣営は、対照的な信念を持つ。平等の価値を心から信じ、これまでの章で示してきたように、現在のアメリカにおける大きな不平等が社会をさらに不安定なものにし、生産性を低下させ、民主主義をむしばんでいると分析する。

知的な戦いは、キャピタルゲインに対する税金を引き上げるべきかどうかなどの特定の政策をめぐって繰り広げられることが多い。しかし、そういう論争の背後で、認識をめぐって、そして市場や国家や市民社会の役割のような重要な思想をめぐって、前述のような重要な戦いが繰り広げられているのだ。これはたんなる哲学的議論ではなく、そういうさまざまな機構の有用性についての認識を形成しようとする戦いなのだ。


スティグリッツの言う戦いとは、市場原理主義と、社会民主主義の戦いということもできそうだ。

一方の側に、市場はたいていの場合市場自身に任せたほうがうまくいき、市場の失敗のほとんどは実は政府の失敗なのだと信じている人々が立つ。もう一方の側には、市場はそれほど万能ではなく、政府には果たすべき重要な役割があると主張する人々が立つ。

このふたつの陣営が、現代の主要なイデオロギー闘争の争点を明確にしている。

この戦いは公共政策のあらゆる領域で続いている。



さて、この本が出版される10カ月ほど前に、イギリスの左派ブログでは、左派経済学における理論的支柱の不在を嘆く投稿がされていた。

Has the Left given up on Economics?(The Disorder of Things)
左派は経済学を諦めてしまったのだろうか?

先進的な左派の知識層の注意は(少なくとも英国では)、社会問題、人種問題、人権問題、アイデンティティ問題に振り向けられている。もちろん、すべては重要なことだ。だが、同じような熱意でもって経済問題が扱われていない。

批判ばかりで、構築がされていない。

近頃の左翼的学生は、カルチュラル・セオリー全盛時代に育っているから、経済研究の能力に不足している。


本当はもっと、統合的で、体系だった、ポスト資本主義の理論があってしかるべきだ、というのだ。

コメント欄では、「そもそも資本主義自体、十分に練られた理論によって出来上がったものではなく、いやもおうもなく目の前に突き付けられた現実の塊を観察することから理論づけられたものだ(大意)」というリアリスティックな意見もあり、また、「ネオリベラリズムは、まさに、経済の理想的姿を思い描きゴールを見据えながら、一団の専門家たちが一丸となって押し進め、実現した実例」と、ある種、畏敬の念を持って述べているようなコメントもある。後者はむろん、ネオリベを賞賛しているわけではない。だが強い信念をもって、ある社会に、ある経済の姿を実現した、そのパワーと協力体制が、いまの左派で実現することはできないのかと、もどかしい思いがあるようである。

わたしはこの「資本主義はいやもおうもなく目の前に突き付けられた現実の塊を観察して理論づけたもの」というコメントが気に入っている。

そして、これを抜本的にひっくり返すような革命的な美しく理想的な理論などというものはなく、われわれは今後も長い将来にわたって、この現実の塊ととっくみあい、部分的になおしなおししながら付き合っていくほかはないのではないか、と思っている。

しかし社会全体にじわじわと浸透している、あるいは、ある時突然に起こる、といったたぐいの変革は、確かに起こりつつある、とも感じる。

特に、経済に関係することでいえば、金本位制から管理通貨制度へ、そして情報通信における技術革命、この2つが大きいのではないだろうか。

金本位制を離れ、自国通貨で経済をまかなうことができるようになった今、われわれの国家は、完全雇用状態になるまで通貨を供給することができる。十分に需要が生み出されるまで、金融緩和することができるのだ。

貧困者が貧困から脱するまでは、少なくともお金を供給すればいい。

といっても、今のようなやり方では、格差拡大の方にむしろお金が費やされてしまうだろう。貧困層にもきちんとお金が回る形で、どうやってお金の供給を増やしていくかが大きな課題である。これは、アメリカも日本も同じである。

この課題は、安倍自民政権では達成しえないだろう。

マクロ経済を理解し、完全雇用と経済成長の実現と、格差縮小をめざす強力な左派の政治勢力が必要とされている。


世界の99%を貧困にする経済世界の99%を貧困にする経済
(2012/07/21)
ジョセフ・E・スティグリッツ

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