セッティングされた撮影会(ねずみ王様のつぶやき)
セッティングされた撮影会 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/36272?page=3
こういう記事がもう少し出るようになってジャーナリズムの水準が少しづつでも向上するとよいなあ。
けれど、フリーランスの元記者だというあたりは結局は別の物語の中に回収されてしまいそうな気もする。
組織の外/内を隔てる壁は大きく、沈みそうな船のなかでは、豪華な宴席が開かれ、まるで危機感は感じられないというのはよくある話。
冤罪事件が出るたびにメディアはそれを批判するが、警察や検察からすると、日々つぎつぎと発生するありふれた「大量」の事件を、いつものように、あらかじめ作られたストーリーの枠組みの中に「自白」を挿入してゆく悪意なき作業の結果であるのだろう。
そしてそれは新聞やテレビのストレートニュースとなんの違いもなく、そのことは、「識者」のインタビューを、あらかじめ作られた箱の中に無理矢理押し込めるという記事の作り方への不平が、「識者」からたびたび漏れることからも分かる。
たとえば自白冤罪事件と、自分たちの日々のニュースや記事の作り方が、まるで同じ種類のものかもしれないという想像を、ただの一度もしたことのない記者がいるとすれば、やはりそれは想像力の欠如と言わざるをえないだろう。
日々のルーティンワークとして大量生産され、流れ作業でこなされる安っぽい正義感が、ある日、致命的な失敗となる。そのヒステリックな攻撃性ゆえに、医療現場や警察検察は、メディアに耳を傾けざるをえないが、しかしメディアの側は、何かに耳を傾ける切実な理由はないという非対称的な関係がある。
つまりvoice(批判) と exit (立ち去り)という有名なふたつの批判のうち、メディアにたいしては、後者の立ち去りしか有効に機能しないという可能性が高い。
批判に対してはどうやら冷笑でもって報いるというこれもまたひとつの処理作業が用意されているように見えるからだ。さっきの特集記事もおそらくは機能しない可能性が高い。