"Real Money"というサイトの
The National Debt Doesn't Need Fixingと題された記事を拙訳。
国の債務とは何か?この話題は常に取り上げられている。不気味な、われわれを脅かすもので、国家の罪であるかのごとく語られる。「
債務を正す」キャンペーンや、ピーターソン基金といった資金力のある団体が、債務に関する際限のないプロパガンダを振り撒いている。
しかし、債務を取り上げるといったときに、国の資産や収入を同時に取り上げないというのは変だ。お金を借りに銀行に行って、「いまこれだけ借金があります」と言ったら、銀行の人は「了解しました。あと、資産と収入はどうでしょうか?」と聞くだろう。ところが国の債務の話になると、それらは議論されない。タイムズスクェアには「債務時計」があるが、資産時計はどこにあるのか。
ほとんどの人が国の債務とは何か理解していない。だいたいは、いつか爆発する時限爆弾のような恐ろしいものと解釈されている。
債務が何か、真に理解するためには、ドルとは何かを理解する必要がある。
ドルとは、税金の支払いに充てられる信用状に過ぎない。どういうことか?簡単な話だ。課税がドルに価値を与えているのだ。
政府が自国通貨のドルでしか、税金の支払いを受け取らない、それが通貨への需要をうんでいる。課税こそが、不換紙幣に与えられている価値の根源にある。
つまり国の債務とは、1789年の連邦の始まり以来、政府が発行した貨幣から、税として支払われた金額を差し引いたものなのだ。
残りの19兆ドルというのは、民間や他国が持つ、まだ税の支払いに充てられていないドルということである。それらが支払われなければならない理由はない。
公共セクターはそのお金をほとんど国債の形で保有しているが、それは単に、満期日があって利息のついたドルであるに過ぎない。
それがいつも話題になる19兆ドルであり、国の債務の意味である。つまりそれは、公共によって保有されるドル(税の支払い能力)である。
それを理解すれば、国の債務が借金ではないことがわかる。外貨を借りているのとは違う。金(きん)を借りているのとも違う。物やサービスを借りているわけでもない。実のところ、何かを借りているというよりも、所有しているというべきなのだ。
さらに、考えてみれば、債務の増え方は、経済成長のサイズ、人口の増加率、貯蓄志向の増加はどみれば、当然増えて然るべき程度だ。それに、天恵でもある。2007年に8兆ドルだったものが、いまは19兆ドルであり、公共の手による11兆ドルの増加こそが、大不況から経済が回復できた理由である。政府が11兆ドルを消費して経済に入れたおかげで、かなりいろいろなものが浮揚した。
ちなみに、11兆ドル増えてもインフレなど起こらなかったし、ドル安にもならなかった。むしろ逆だった。つまりさんざん聞かされてきた、金を刷るとインフレになり通貨価値が毀損されるというたわごとは嘘っぱちだったわけである。
われわれが、債務によって金を調達したとき、金を借りているわけではないと理解することが重要だ。債務はドルであると申し上げた。政府によって使われて、実在化した。(ここは訳に自信なく、校正希望。原文→Dollars spent into existence by the government. Everything was paid for.)
もし国家として、本当にドルを借りて調達したとして、そのドルはどこから来るのか?何しろドルは、政府の消費によってしかもたらされないので(あなたはドルを刷らないし、私も刷らないし、中国も刷らない)、そもそも、誰かが貸すよりも前に、消費されて実在化しなければ、貸す金はない。
モノポリーというゲームがある。遊び始める前に、お金を配らないといけない。サイコロを振って、「チャンス」や「共同基金」にあたって税金を払うことになったら、すでに配布されたお金のなかから払戻す。すべての人にあらかじめモノポリーマネーを配らなければ、ゲームができない。そのお金を借金と呼ぶだろうか?もちろん、そうは呼ばない。それならなぜ、我々に配られたお金を国の借金と呼ぶのか?
債務恐怖症や、債務恐怖を利用して人心を操るキャンペーンは、本当に嘆かわしい。そうしたことはすべてデマであるか、ひねくれた意図にもとづいている。「債務を正す」ことは我々が、国としてできる最悪の行為だ。それはつまり、政府がその金を取り消すということで、そしてそれは実際に消え去ってしまう。それこそが、かつてない経済的「核の冬」に世界を突き落とす災厄となるだろう。
しかしそれを我々はやろうとしている。それをまさに、非常に「賢い」人々が提案している。私の記憶では、憲法に均衡財政条項を入れるのに、確か、あと7州のサインを残すのみだったと思う。デマとそれを利用したプロパガンダによってもしそんなことが実現したら、いまわれわれが米国として受け入れている暮らしや社会は、何世代もの先まで変わってしまう。良い方への変化にはなりえない。